どこかのひとり

思ったことがあれば更新します。

理想の形に擦り切れて無くなってしまえと願う

私よ、誰かの為の、私の望む形であれと願う。

誰かの為になれる自分を理想として、その形からはみ出す部分を切り取り、削っていく。この作業は楽だ。

だが足りない部分を盛っていくのは労力が要る。それが頭脳を使うものとなると、さらに大変だ。

ただ体を動かすだけで良いならば、切って削った精神の神経は麻痺させたままで、体さえ動かしていれば良い。だが、頭を使うとなると、精神の麻痺を解かなければ、頭はなかなか稼働しない。

麻痺を解いた心の痛みに耐えながら、頭に入っているのかいないのかわからない文字の羅列を目で追いながら、知識を頭に叩き込まなければならない。出来ればそういうことはしたくない。

 

だからあまり、盛っていく作業はしたくない。理想に自分を合わせるなら、切って削ることだけをしていきたい。

そうやって誰かの為に、自分を切って削って、だんだんと精神の麻痺がひどくなって、欲望がすり減って、消えてなくなってしまえるならば、それが私の理想なのかもしれない。

「助からなくてもいい」という夢想

「助かりたい」という言い回しを聞いてから、「助からなくてもいい」という言葉が浮かぶようになった。

この苦しさから逃れたい、という願望に対して「助かりたい」は生きて苦しみから逃れたいという意味であり、「助からなくてもいい」は死んで逃れたいという、つまりは希死念慮だ。

 

「助からなくてもいい」と思っている時、そうでない時に比べて、このブログの記事を書くのは難しい。基本的にこのブログは前向きな気持ちとまではいかないまでも、自分を変えて後ろ向きな思考のループを止めようという動機で書いているためだ。

「助からなくてもいい」は、助かる気が無いのだから、自分を変えようという動機は働かなくなる。それでもなぜ書くのかというと、自己のその時々の思いを文章に残すことは、何かしら役に立つと思っているからだ。未来を想うということはどこかに助かる気がありそうだが、そんなことを今更発見したところでなんの感動もない。

 

最近の私は「助からなくてもいい」と思った時、積極的に死にに行くのではなく、いつか来る死を夢想する。

私は思うままに活動し続けていると、いつの間にか体の限界を超えてしまう事が多々あるため、「助からなくてもいい」モードの場合は過集中気味な夜を繰り返すうちに死んでしまえないかと思いながら、やる事がない時は横になり、ある時は活動を続ける。

 

私の想う未来は、活動の限界を超えて早めに死ぬ未来だ。今すぐ死んでしまえないかと思っている時は、即刻行動に移せない自分を責め続けているが、それに比べていつ来る死を待つだけで良いのはより楽だ。特に最近、こんな生活を続けていては早死にすると言われ、よりそのある種の期待感が強くなっている。

いま残している文章は、死ぬまでの間の何処かで役に立てばいいし、別に役に立たなくたっていい。いま身体に負荷をかける事が目的だ。以前より目的のある文章を書こうとしていてないので、支離滅裂になってしまうが。

 

助からなくてもいい、は楽だ。何にも追い立てられず、ただこの先を楽しみに出来る。好きなようにして良いのだという明るさと、その先の死という後ろ暗い期待の両方を持って、明日も活動していこうと思う。

自分の煩雑さとまだ見ぬ怒られへ怯える

今年の1月から会社を休職している。それはさておき、今日考えたことを綴っていきます。

 

私の悩みは、物事をやり過ぎてしまった場合に、発生するという傾向があるように思う。

 

終わらない仕事は自身の心身が病むまで取り組み、酒は帰宅後に嘔吐か自失するまで飲み、人との会話では自己を開陳し過ぎて相手を戸惑わせ自身は恥をかく。

これらの失敗は、どれも致命的という程のものではないが、累積して私を苦しめることがある。

 

私の心が弱った時、累積した失敗達が私は非常に迷惑で面倒な存在だと、私に突きつけてくる。

私はその自分の煩雑さに圧倒されて、これはもうさっぱりと無くしてしまった方が、私の周囲もスッキリして良いのではないか、と思えてくる。

しかし、いなくなるという選択肢を取らない方針であるため、この考えに囚われていると、私は私の嫌悪する煩雑な存在のまま、未熟で居続けることになる。

自死に対する空想を捨て、嫌悪する存在から抜け出さなくてはいけない。

それに必要なのは、なぜ上記のような行動を取ってしまうのか分析し、防止策を立てることだ。

 

自己を分析して動機を探ることは正直億劫ではあるが、やらなくてはいけない。

なにか参考になる本を探して書いたい。昔はそういう方法でやっていた。

 

もしここで、自身の問題点を無視して生き続けた場合、私はどこかで誰かに怒られたり、知らない間に友人知人が去って行ったりするのだろう。それが怖くて、私は自身の問題点を分析し、対応策を練ろうとしている。

しかし、それはちゃんと効果があるだろうか。

人とのコミュニケーションの取り方が問題だとして、「人との話し方」のようなマニュアル本を買うのか?それで、解決できるのだろうか。

分析は出来ても、改善まで繋げられる自信はない。

自身の行動だけで、改善出来るものだろうか。誰かから、厳しい指摘を受ける事でしか、治せない部分をあるなではないかと、私は怯えている。

 

睡眠導入剤が効いてきたため、本日はここまでとする。うつらうつらしながら書き始めたので、おかしな箇所があるかも知らないが、終わりとする。

自傷を避ける動機を探せ

しばらく自傷願望とは無縁でいることが出来たが、そんな時間は半年余りで終わってしまった。しかしこの半年で、皮膚に刃物を引くことに抵抗感を持つようになった。

 

今回の自傷願望は、明らかに周囲へのアピールだ。

自分が辛い心境であることを、周囲に言葉で伝えることが出来ない、伝わらないために、自傷という行為で周囲に伝えようとしている。

(一年ほど前は、不快な妄想のループを止めるための区切りの行為としての、衝動的なものだった)

 

ではこの幼稚な手段を実行しないために、自分を抑える理由を考えた。

周囲に不快を与えないため、自死に至らないため、などが思いつく。

自分を大切にするべきという理由は、自傷願望があるときの私にまったく効力を持たないため、除外する。

 

カウンセラーの方には、自傷の延長線上に自死があるといわれる。私はそこまで到達する気はしない。自傷自死につながっているとしても、今の私にとっての自傷は心を調節するため手段の一つで、明日も朝に起きて生活していくためのものだからだ。(代替え可能であれば、できるだけ使用するべきではないと思っている)

 

自死を望みながら実行できなかった昔は、ちまちまと続ける自傷によっていつかはそこにたどり着けないものかと思っていたが、今では私にはそんな変化は起こらないという諦観がある。

 

周囲に不快を負わせながら、どうせだらだらと生きていくならば、これ以上つまらなくならないために自傷を避ける、という動機で今回は落とす。

ゴミと思った今昔

久しぶりに自分をゴミだと思った時に、既視感よりも新鮮さを感じたのは、新たな切り口で自分のゴミ具合を発見したからだろう。

この場合、同じ失敗をするより、どうしようもねえな感が強いと知れた。

 

以前、自分のゴミ具合を感じると「周囲に迷惑を振りまかないように、やれることはやって必要以上に関わらないようにしよう」「生きるのやめよ」と思ったものだが、結局は自分を肯定してくれそうな人間にもたれかかっていた。今回は同じ轍を踏まないように、という意識があるだけ少しは前進したと思いたい。どこも切ってないし。

 

ならば、今はどうするのか。憂鬱に沈むのではなく、誰かにもたれて逃げるのでもなく、自分のゴミさ具合に向き合ってなんとかするしかない。

なんとかってなんだ、と思ったりするがそこから考えなければいけない。

「出来る限り、だれとも関わらずに」なんて実行できなかった方法を取ろうとしたのは、安易さに流れた結果なのだから、少なくともそちらに流れてはいけない。

 

いままでに何度か生きないとか、関わらないとか、自罰だとか、極端な方向を選んでできなかったりよくない結果になったお陰で、もうそういうのはいい加減やめようや、といううんざり感が今はある。

 

また、今回はちゃんとカウンセリングに通っているわけなので、そこで相談するという手もある。

 

なんだ、それなりに色々準備はあるんじゃないか、と一瞬思ったりしたが、積み上げた事柄に対するあまりのコストの高さにやっぱりゴミだなぁと思った。

でも、まだ生きるんだよなあ。

 

とりあえず、今回は自問自答以外の選択肢があることに大変期待が持てたので、自分をゴミと思った時の為に、カウンセリングに行っておくことはおススメです。

取り戻せないものを追うより、いっそリセットしたほうが良いと思う

どうしても無視できない記事を見つけた。

anond.hatelabo.jp

 

 この記事を書いた人が、早く元気に、楽しく過ごせるようになればいいと思った。

強く共感しすぎて、読むことが辛い記事だった。

彼のことが大好きだからこそ、こんなことになってしまって悲しくて悔しくてたまらないんだと、想像する。

 

 

風俗に行ってほしくないと思うことも、彼女がいても風俗に行きたいと思うことも、どっちも悪いことだと断じられるべきじゃない。

彼女の不幸は、好きな人とそういう価値観が一致していなくて、確認し合う前に事が起こってしまったところにあると思う。

 

彼女は付き合い続けることを選んだ(「別れることができなかった」に近そう)けれど、とても辛そうだからお節介だろうけど「一度別れたほうがいいよ」と思ってしまう。一度壊れてしまった信頼をもとに戻すことは出来ないし、元に戻れるときが来るとも限らない。

とてつもなく辛いだろうけど、大丈夫だから。

 

2017年度のこと

「今はもう、していないんだよね?」

という質問には大体の場合「そうだよ、昔の話だからね」と答えるしかない。(自傷の話)

本当はどうかに関係なく、その場はそう答えるべきだ。双方にとって、それが一番良くて、恐らくそれ以外はとても悪い。

現状について嘘をつくことは負担になるが、それは不用意に重たい話をぶつけてしまった自分の責任なのだから、そのくらいは負うものだと思う。

自分の痛みを無視するものは、他人への痛みにも鈍感になっていくものなので、話を聞く側の立場を考えられていない。

これはとても良くないことで、私がカウンセリングに通おうと思った理由の1つだ。

関わる時間が多いほど、深く関わるほど他人を疲弊させているのではと感じ、そんな自分への否定感が高まって生きていたくなくなった。

それが去年の4月頃だった気がする。

その時、手軽に死ぬ方法がないだとか、どこかでは生きたかったとか、福利厚生でカウンセリングが安く受けられたからとか、そんな理由で自死よりカウンセリングに行くことを選んで今も生きている。

自傷は恐らく治っていない(選択肢として頭に浮かびやすい)

希死念慮も無くなったとは言えない。

けれど、一年間死なない方に流れて割と面白く過ごせたのではないかと今は思っている。この私の「なんだかんだ楽しかった」と言える一年は、私の状態がどうであろうと変わらない事実で、そこに一応の安心と、これからも死なない動機をぼんやり見出せた。

 

カウンセリングに通う前に比べて、劇的に改善したという実感はない。今まで通り、これからもどうなるかは分からない。

それでも、とりあえずこの一年を過ごせたことはまぁよかった、と思える。

 

2017年度の感想でした。