どこかのひとり

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「助からなくてもいい」という夢想

「助かりたい」という言い回しを聞いてから、「助からなくてもいい」という言葉が浮かぶようになった。

この苦しさから逃れたい、という願望に対して「助かりたい」は生きて苦しみから逃れたいという意味であり、「助からなくてもいい」は死んで逃れたいという、つまりは希死念慮だ。

 

「助からなくてもいい」と思っている時、そうでない時に比べて、このブログの記事を書くのは難しい。基本的にこのブログは前向きな気持ちとまではいかないまでも、自分を変えて後ろ向きな思考のループを止めようという動機で書いているためだ。

「助からなくてもいい」は、助かる気が無いのだから、自分を変えようという動機は働かなくなる。それでもなぜ書くのかというと、自己のその時々の思いを文章に残すことは、何かしら役に立つと思っているからだ。未来を想うということはどこかに助かる気がありそうだが、そんなことを今更発見したところでなんの感動もない。

 

最近の私は「助からなくてもいい」と思った時、積極的に死にに行くのではなく、いつか来る死を夢想する。

私は思うままに活動し続けていると、いつの間にか体の限界を超えてしまう事が多々あるため、「助からなくてもいい」モードの場合は過集中気味な夜を繰り返すうちに死んでしまえないかと思いながら、やる事がない時は横になり、ある時は活動を続ける。

 

私の想う未来は、活動の限界を超えて早めに死ぬ未来だ。今すぐ死んでしまえないかと思っている時は、即刻行動に移せない自分を責め続けているが、それに比べていつ来る死を待つだけで良いのはより楽だ。特に最近、こんな生活を続けていては早死にすると言われ、よりそのある種の期待感が強くなっている。

いま残している文章は、死ぬまでの間の何処かで役に立てばいいし、別に役に立たなくたっていい。いま身体に負荷をかける事が目的だ。以前より目的のある文章を書こうとしていてないので、支離滅裂になってしまうが。

 

助からなくてもいい、は楽だ。何にも追い立てられず、ただこの先を楽しみに出来る。好きなようにして良いのだという明るさと、その先の死という後ろ暗い期待の両方を持って、明日も活動していこうと思う。